【サイドビュー】
それは、1本の国際電話から始まった。
(01)サンノゼからのコール

それは、のちに幾度となくナルボの歴史へ登場することになる天才プログラマ・S氏からの電話だった。
しばらく音信不通だった彼からの突然の国際電話に、「一体、何事だろう」と身構えながら受話器を取る。
「今、サンノゼにいるんだけど、仕事を手伝ってくれない?」
受話器の向こうから聞こえる懐かしい声。一瞬の思考ののち、私の口から突いて出たのは「分かった。行く」という短い返答だった。
S氏とは同い年で、最初の就職先も同じ。かつて電話交換機の「PL/Iライクなコンパイラ」を共に開発した戦友である。さらにナルボの黎明期(1987年)には、その後のナルボの経営と技術の強固な基盤となる一大プロジェクト(表計算システム)にも参画してもらった経緯がある。(このあたりの詳細な物語は、続く「エピソード 02 ── 表計算システム」で語ることにしよう)。
互いの技術と信頼を誰よりも知る男からの要請だ、迷う理由はどこにもない。私は何はともあれ国内の現在の仕事を急ぎ整理し、成田空港からサンノゼ国際空港へと向かう機体に飛び乗った。
(02)クパチーノへの系譜と、フリーウェイの洗礼

目指す行先は、カリフォルニア州クパチーノにある某S社。非常に簡素で、調和の取れた美しい街並みが印象的な場所だ。当時のS社は、マイクロソフトやボーランドと並び、ソフトウェアの開発環境をグローバルに牽引する巨大企業だった。
当時の勢力図を映すように、S社、アップル、ボーランドの本社はお互いにすぐ近くに位置していた。特にS社とアップルにいたっては、道を隔てた目と鼻の先。シリコンバレーの熱気が物理的な距離からも伝わってくる環境だった。(ちなみにマイクロソフトは、サンノゼから見れば遥か北、シアトルを拠点としている)。
手元の古い資料をひっくり返してみると、当時の航空券が残っていた。アメリカン航空AA128便。1995年9月26日(火)17:45成田発、同日11:10サンノゼ着。期せずして、アメリカン航空が創業100周年、我がナルボが40周年を迎えた2026年の今、この記録を見返していることに不思議な縁を感じる。
帰国は12月中旬頃だったろうか。約3ヶ月の滞在拠点となったのは、サンノゼの「Oakwood Apartments(830 So. Saratoga Ave.)」だった。広大な敷地に100棟ほどのアパートメントが立ち並ぶ巨大なコンプレックスである。入居した最初の部屋はシャワーの排水不良に見舞われ、早々に別の部屋へ移る羽目になったのも、今となってはアメリカらしい思い出だ。
しかし、本当の「アメリカン」な洗礼は、到着したその日に待っていた。長いフライトを終え、時差ボケの体を休められるかと思いきや、アパートに荷物を置くやいなや空港へ引き返し、レンタカーを手配することになったのだ。
国際免許は携行していたものの、左ハンドルも右側通行も人生で初めての経験。不安を抱えながら走り出してすぐに、強烈な違和感を覚えた。フリーウェイの合流車線が、日本に比べて圧倒的に短いのだ。現地のドライバーたちは、まるで「たまたまぶつかっていないだけ」に見える絶妙な(あるいは無謀な)タイミングで次々と本線へ突入していく。
「本当に大丈夫か?」という不安が脳裏をよぎるが、アパートへ帰るためにはこのモンスターのようなハイウェイを突き進むしかない。瞬く間に迫りくる合流の入り口。後続車のプレッシャーもあり、減速など論外だ。意を決して、光の渦の中へとアクセルを踏み込んだ。
──無事、生きていた。
初日の数時間にして、私の意識は「アメリカン・モード」へと、強制的にスイッチされたのだった。
(03)ナルボの原点となった開発環境

実際の開発現場に足を踏み入れて驚かされたのは、その破格の開発環境だった。
なんと、開発者一人ひとりに約10畳ほどの完全な「個室」が与えられていたのだ。室内には片側が長めに設計されたU字型デスクとホワイトボード、壁面の上部には機能的な棚が配置されている。まさにメジャーリーグ級の仕事場だった。
すべての部屋のドアは常にオープンに保たれており、お互いがいつでも気軽にコミュニケーションを取れるオープンな空気が満ちていた。空間の使い方は完全に個人の自由に委ねられている。マイバイクをそのまま持ち込む者、部屋のライトをすべて消して暗闇の中でコードを書く者、人間の背丈を超えるようなキャンディタワーをいくつも積み上げている者など、実に個性的で自由奔放だった。さらに、共有スペースにはコカ・コーラのサーバーをはじめとする豊富なドリンクや軽食が常備され、クリエイターへの配慮が行き届いていた(さすがにアルコールはなかったが)。
このとき目にした光景は、その後のナルボにおける開発環境の絶対的な指標となった。「開発者が最高のパフォーマンスを発揮するための投資は惜しまない」という思想である。現在のナルボが誇る、十分な性能のPC、最大最良のディスプレイ、160mm×120mmのL字デスク、最高の椅子、そしてフリードリンクといった快適なオフィス環境は、すべてこのクパチーノでの原体験がベースになっている。
しかし、その圧倒的な自由の裏側には、徹底したシリコンバレー流の「成果主義」が冷徹に息づいていた。
開発の進め方はチームによる合議制ではなく、各タスクが完全に個人へと分担され、一任されるスタイル。自分の担当パーツの遅れやトラブルは、そのままダイレクトに自己の結果責任となる。それは全体の開発スケジュールを直撃することを意味し、ただでさえ勝手の違う異国での仕事ということもあって、一瞬たりとも気を緩められない日々が続いた。
「最高かつ自由な環境を与える代わりに、それ相応の成果が出なければ即クビ」
そんな目に見えない強烈なプレッシャーと闘いながら、私の心地よい緊張感と時差ボケは、最初の2週間もの間、ずっと続いていた。
(04)自作PCから始まった日本語ローカライズ

課されたミッションは、ある製品(32ビット/64ビット版)の日本語ローカライズ(最適化)である。しかし、現地で私を待っていたのは完成された開発マシンではなく、バラバラのパーツだった。つまり「まずは自分で開発用のPCを組み立てろ」ということだ。
それまで国内で主流だったPC-98規格に慣れ親しんでいた私にとって、PC/AT互換機の自作はまったくの未知の領域。現地のパーツショップを巡って部品を調達したが、コストを抑えようと安い店を選んだのが災いしたのか、不良品が続出する。特にハードディスクは何度も初期不良に悩まされ、交換を繰り返したものの埒が明かず、結局は値の張る正規品を買い直してようやく完成にこぎつけた。後から聞いた話では、なんと「返品された不良品がそのまま店頭の販売用の山に戻されているだけ」だったという。アメリカのカルチャーショックに、ただただ圧倒される日々だった。
苦労してマシンを組み上げ、次に向かえたのがソフトウェア開発環境の構築だ。32/64ビット環境の切り替え、メイクファイルや環境変数の設定、ソースやライブラリの捕捉、日本語コンパイラへの対応など、異国での環境構築はストレスの連続だった。
肝心の日本語化作業も多岐にわたり、一筋縄ではいかなかった。
- フォント関連の制御
- エスケープシーケンスのシフトJIS対応
- 32ビット版のUNICODE変換
- その他日本語化に伴うU.S.版ベースのバグ対応
しかし、環境さえ整ってしまえば、あとは自身の作業に深く没頭することができた。集中が生み出すクオリティは高く、一通りの作業が完了して無事に納品を終えたとき、プロジェクト責任者のIさんが「よくやってくれた」と力強く握手を求めてくれた。
その手の温もりと確かな達成感に胸が熱くなり、Iさんと別れた後、思わずひとりで小さくガッツポーズをしたのを今でも鮮明に覚えている。
その夜は最高の気分で、珍しくひとりで少し高級そうな寿司店へと足を向けた。後にも先にも、現地で訪れたのはその一回きりのお店だ。お寿司の味こそ記憶の彼方だが、その後に起きたコミカルな出来事は忘れられない。
私がカウンターで寛いでいると、一人の黒人客がリズミカルに鼻歌を口ずさみながら入ってきた。彼が卓上の醤油差しを手に取った瞬間、「何かが起きる」と直感した。案の定、彼は醤油差しの「注ぎ口」のデザインをとって(ハンドル)だと勘違いしたらしい。注ぎ口をグイと引っ張り、蓋を丸ごと開けて豪快に醤油を注ぎだしたのだ。
止める間もなく、テーブルはびちゃびちゃに。しかし本人は悪びれる風でもなく、ひとりで大ウケしていた。厳しい仕事のあとに訪れた、アメリカの日常のなんとも規格外で、愛すべきワンシーンだった。
(05)あごから出血? カリフォルニアの食の記憶

現地での日常の食生活を振り返ると、朝食と夕食の記憶は驚くほど希薄だ。おそらくスーパーで買い込んだシリアルと牛乳で、毎日のエネルギーを適当に補給していたのだろう。ただひとつ鮮烈に覚えているのは、現地で飲むオレンジジュースの格別な美味しさだ。さすがは太陽の恵みを受けるカリフォルニア、その瑞々しさだけは毎日の小さな贅沢だった。
対して、昼食には決まったルーティンがあった。いつもS氏を含めた3〜4人のメンバーで向かったのは、近所にあった大きな和食レストランだ。100人以上は収容できそうな広々とした空間で、お寿司や天ぷら、蕎麦などが提供されていた。記憶は少し曖昧だが、確か「浜鮨」といった名前だったように思う。
ある日のランチタイム、近くのテーブルに4人のアメリカ人客が腰掛けた。彼らは注文を終えるやいなや、一斉に日本の割り箸を手に取り、慣れた手つきでパチンと割った。そこまでは良かったのだが、次の瞬間、彼らは箸の先端同士を「カシャカシャ、カシャカシャ」と激しく擦り合わせ始めたのだ。しかも、いつまでも、大真面目な顔で。おそらく誰かが「こうしてトゲを滑らかにするんだ」と教え込んだのだろうが、全員で延々と箸をリズミカルに擦り続ける姿はどこか滑稽で、私たちの心を大いに和ませてくれた。
一方で、本場のハンバーガーに対する期待は、少々苦い結果に終わった。もともとハンバーガー自体は好物だったのだが、アメリカのそれはあまりにも巨大で、かつ大雑把で単調な味付け。早々に舌が飽きてしまい、アメリカン・フードの洗礼に圧倒されていた。
そんなある日、オフィスのメンバーに大きなバゲット系のサンドイッチの差し入れがあった。みんなで喜んでかぶりついたのだが、これがまた規格外だった。バゲットがあまりにも巨大で硬く、噛み締めるたびに上あごが激しく削られていく。あごの筋肉がすっかり疲弊し、執念でようやく食べ終えたその瞬間、ふと横を見ると同じく完食したS氏がこちらを見ていた。
無言で交わされた、一瞬のアイコンタクト。
お互いの目に宿る確信──「……今、あごから出血してるよね」。言葉にせずとも、私たちは口内を負傷したことを同時に悟り、静かに苦笑した。そう、ここはタフでワイルドな国、アメリカなのだ。
(06)サンタクルーズの海風と、週末のオアシス

過酷な平日の戦いを潜り抜けた私たちにとって、最高の救いとなったのが週末の時間だった。毎週末、私はS氏と共にプロジェクト責任者であるIさんの邸宅へとお邪魔し、奥様の手料理をご馳走になるのが何よりの楽しみだった。
ご夫妻は私たちと同年代だったが、Iさんはその会社のアジア圏全般を統括する最高責任者。名門ボーランド社の出身で、彼から聞く業界の裏話や奇抜なエピソードはどれも抱腹絶倒のものばかりだったが、そのあまりに刺激的な中身は、ここでは割愛しておくことにしよう。
Iさんの邸宅は、サンノゼから南へ約50km、車で1時間ほどの場所にある海辺の街・サンタクルーズにあった。そこへ至る「17号線」は、山を越えていく一本道なのだが、なかなかの難所だった。蛇行するカーブが連続し、常に繊細なハンドル操作を要求される上に事故が多発する。年間365件以上──つまり毎日どこかで事故が起きていると記憶しているほどの危険なルートで、途中の山頂付近にはボーランド社の美しい本社が佇んでいた。
しかし、その険しい山道を抜けた先に広がるサンタクルーズは、まさに楽園だった。海沿いを走る1号線と交わるその街は、1885年にハワイの王子たちが波に乗ったことから「アメリカサーフィン発祥の地」として知られている。太平洋から心地よい海風が吹き抜ける海岸には、驚くほどたくさんのアザラシやカモメが集っていた。木造の桟橋の先にある小さな売店で食べるクラムチャウダーの味は絶品で、観光地として有名なサンフランシスコのそれよりも、私たちの舌を深く唸らせた。
そして何より、Iさんの奥様が食卓に並べてくださる和洋中の料理が、どれも言葉を失うほどに美味しかった。ご実家が信州でペンションを経営されていると聞き、その見事な腕前にも大いに納得したものだ。
奥様の温かいおもてなしとウィットに富んだ会話は、異国の地で張り詰めた日々を送っていた私たちの心と体を、芯から柔らかく解きほぐしてくれた。あの週末のディナーと穏やかな語らいの時間に、私たちはどれほど救われ、新たな活力を与えられたか計り知れない。
(07)ナビなき時代のカリフォルニア・ドライブ

初日に味わった「合流の洗礼」に続き、カリフォルニアでの運転事情についても少し記録しておきたい。
周知の通り、アメリカの道路は右側通行で、操るレンタカーは左ハンドル。広大なハイウェイ(高速道路)は完全に無料で、片側3〜5車線という圧倒的なスケールを誇るが、朝夕の通勤ラッシュ時ともなれば激しい混雑に見舞われる。
その中で、アメリカの交通インフラの合理的な設計思想に感心させられた。特に興味深かったのが、流入する交通量が一定を超えると、ハイウェイへの進入路にある信号が作動し、本線への合流数を自動的に規制するシステムだ。本線そのものの致命的な渋滞を未然に回避するための実に見事な知恵だった。
また、現地では数少ない鉄道の踏切を通過する際、日本のように一時停止をしてはならないというルールにも驚かされた。停止すること自体が規則違反であり、もし止まれば確実に後続車から猛スピードで突っ込まれる。遮断機と警報機を前提とするならば、流動性を最優先するこの思想も非常に合理的だと言える。
しかし、その広大さゆえの危険も潜んでいた。一般道であっても片側4車線ほどある道路が珍しくないため、交差点を左折する際、本来入るべき遥か向こう側のレーンを見誤り、手前のレーンに誤進入してしまったことが2回ほどある。次の瞬間、視界の先からヘッドライトを光らせた車の大群が怒涛の勢いで押し寄せてきた時は、文字通り背筋が凍りついた。
当時は、スマートフォンのGPSもカーナビゲーションも存在しない時代である。見知らぬ異国のルートを開拓するための唯一の命綱は、「紙の地図」だった。私はカリフォルニア全域を網羅した10枚以上のマップを常に車内に常備していた。
アメリカの地図は、日本の冊子型とは異なり、一枚の巨大な用紙を何重にも折りたたんだものが主流だった。最初は扱い方に戸惑ったものの、慣れてしまえば全体の正確な距離感と位置関係を一目で把握することができ、ナビゲーションなき時代の心強い相棒として深く重宝したのである。
(08)カリフォルニアの光彩 ── 聖地とワイナリーを巡る休日

過酷な平日の反動のように、休日はアクティブにカリフォルニアの街へ車を走らせた。
よく訪れたのは、サンノゼからハイウェイ101号線か280号線を北へ80kmほど進んだ場所にあるサンフランシスコだ。車でわずか1時間ほどの道のりだが、その101号線沿いには、今や泣く子も黙るITの聖地──サニーベール、マウンテンビュー、パロアルト、ベルモント、サン・マテオといった錚々たる街並みが連なり、その中心にスタンフォード大学が鎮座していた。
サンフランシスコではいつも決まった駐車場に車を止め、ランチを食べて周囲を気ままに散策するのが常だった。1995年当時、アメリカは未曾有の好景気に沸いており、街全体が瑞々しい活気に満ちあふれていた。休日のお昼時ともなれば、オープンカフェのテラス席で心地よい生演奏を聴きながら穏やかなランチタイムを過ごす人々の姿があった。当時は意識していなかったが、あの洗練された賑わいは、きっとユニオンスクエアの周辺だったのだろう。
また、サンノゼから南へ120kmほどハンドルを握り、モントレーにも何度か足を運んだ。サンタクルーズからは70kmほどの場所に位置するその美しい港町は、アメリカ人が「いつか住みたい」と憧れる屈指のリゾート地だ。海岸線に沿って走る高名なドライブルート「17マイル・ドライブ」や、お洒落で愛らしいショップが立ち並ぶ街並みは息をのむ美しさだった。
そこは同時にゴルフの聖地でもあり、全米オープンが開催される名門「ペブルビーチ・ゴルフリンクス」が横たわっている。なかでも8番ホールのセカンドショットは、右手に荒々しくも美しい太平洋の絶景を望みながらの伝説的な崖越えルートだという。あの帝王ジャック・ニクラスをして「生涯であと一度しかプレイできないなら、私は迷わずペブルビーチを選ぶだろう」「人生最後のショットは、あの8番のセカンドショットだ」と言わしめたほど、穏やかな気候と圧倒的な景観が調和した至高の場所だった。
さらに、Iさん夫妻の案内で訪れたヨセミテ国立公園のスケールにも圧倒された。氷河によって削り取られた深い渓谷や、巨大な花崗岩の岩壁が続くその雄大な自然公園は、なんと東京都の面積を遥かに凌ぐ広大さだ。1984年に世界自然遺産に登録されたこの場所の象徴が、巨岩「ハーフドーム」とそこから流れ落ちる壮大な滝なのだが、訪れたのが10月か11月の秋口だったこともあり、水量が少なめだったのも今となっては微笑ましい記憶である。
そしてもうひとつ、S氏と共に訪れたナパ・バレーのドライブも深く記憶に刻まれている。サンノゼから北へ160km、サンフランシスコからは90kmほどの場所に位置する、世界的なワイナリーの聖地だ。今でこそ日本でもナパ・ワインの名は広く知れ渡っているが、1995年当時はまだ通好みの存在だったように思う。
数あるワイナリーの中から雰囲気の良い一軒を選び、目の前に見渡す限りの広大なブドウ畑を眺めながら、パスタとワインを楽しんだ。
日頃の激務を忘れ、お互いに言葉を交わすこともなく、ただ静かに眼前の景色を眺めていた。その無言の時間が、何よりも心地よく、私たちの張り詰めた心を深く落ち着かせてくれたのである。
(09)ロサンゼルスのリムジンと、広大な駐車場の罠

滞在中、ナルボが当時お付き合いのあった某NTTD社から、一本の要請が入った。ある国際プロジェクトにおいて、米国現地のIT企業と進めている会議に参加してほしいという。場所はロサンゼルス。自身にとって初めての地となるその街へ、私は1泊2日の強行軍で向かうことになった。
サンフランシスコ空港から空路でロサンゼルス空港へ。到着ロビーに降り立つと、ハリウッド映画でよく見るあの光景が待っていた。私の名前が力強く書かれたプラカードを掲げるドライバーの姿。自分の名前を見つけた瞬間は、気恥ずかしくもどこか誇らしいものだった。
さらに驚いたのは、彼が案内してくれた車が超大型の「リムジン」だったことだ。8人は優に座れるラグジュアリーな大空間に、日本から来たエンジニアが男一人で揺られる。少々気が引けながらも、陽気な黒人ドライバーと言葉を交わしながらハイウェイを滑るように進んだ。1時間ほどで到着した宿泊先のアパートメントは、確か「オレンジ」の名が付く美しい街だったと記憶している(さすがにビバリーヒルズではなかったが)。見上げれば、ロサンゼルスの空もまた、吸い込まれるように鮮やかな青だった。
翌朝、張り詰めた空気の中で会議が始まった。
議論を進めるうち、現地IT企業の開発進捗がどうにも芳しくないことが浮き彫りになっていく。プロジェクトの行く末を案じた私は、日本側の代表として彼らに対し、少々強めの指摘と切り込みを行った。その熱量が響いたためか、役割を果たした私の午後の打ち合わせ出席は免除となった。
この午前中の打合せで、今でも鮮明に記憶に残っている技術者がいる。
かつてナルボでもWindowsの複雑な挙動調査で総力を挙げて解析した難解なバグ案件について、議論が紛糾した瞬間のことだ。それまで会議室の隅で静観していた現地のエンジニアが、ここぞというタイミングで議論の核心に飛び込んできた。そして、その難題に対する完璧な解決策を、澱みなく即座に提示してみせたのだ。
余計な議論はせず、ただ一太刀で勝負を終わらせる。その鮮やかな手並みは、さながら組織に雇われた凄腕の「用心棒」のようであり、シリコンバレーの技術的底力を見せつけられた瞬間だった。
(09.2)4000台の迷宮 ── サンフランシスコ空港の罠
無事に激務を終え、ロサンゼルス空港からサンフランシスコ空港へと帰還したのは、予定通り15:00頃のことだった。すべてが順調だった。あの「事件」が起きるまでは。
私は出張前、レンタカーをサンフランシスコ空港の長期(ロングターム)駐車場に預けていた。この駐車場が、文字通りの怪物だった。収容台数約4,000台、サッカー場が10面分は収まるという圧倒的な広大さを誇る。敷地内はいくつものブロックに細分化され、シャトルバスや車両が通過する時だけゲートが開閉する巨大な迷宮だ。
当然、駐車した位置を特定するためにエリアごとに行列番号が採番されているのだが、ロサンゼルスへの移動を急いでいた私は、その最も重要な「駐車エリア番号」をメモし忘れていたのだ。
歩けども歩けども、私の借りた車は見つからない。見渡す限りの車の海を前に、無情にも2時間が経過し、カリフォルニアの美しい空が徐々に薄暗く沈み始めていく。「最悪、この見知らぬ空港の片隅で朝が来るのを待ち、明日もう一度ゼロから探すしかないか……」と、最悪のシナリオを覚悟し、絶望が胸をよぎった。
だが、諦める前にもう一度だけチャンスをくれと、目を閉じて駐車した瞬間の記憶を極限まで集中させた。
「車を降りたとき、遠くに見えたあの山がこの角度にあった。光の差し方はこうだったはずだ」
脳内のコンパスを頼りに消去法で可能性を絞り込み、ひとつのエリアへと最後の探索を試みた。広大な列を進む中、視線の先に「見覚えのあるシルエット」が浮かび上がる。
「あれは、もしかして──」
半信半疑で駆け寄り、フロントガラスの奥を確認する。そこには、以前私が日本流の応急処置としてガムテープで固定した、あのバックミラーが鎮座していた。愛おしい我が相棒と奇跡の再会を果たした瞬間、私は嬉しさのあまり、思わず車のボディを何度も撫で回していた。
「さあ、クパチーノへ帰ろう」
安堵の溜息とともにアクセルを踏み込んだ私の横顔を、カリフォルニアの夜の帳が静かに包み込んでいった。
(10)ラスベガスCOMDEXでの苦い記憶

1995年11月。ネバダ州ラスベガスを舞台に、当時世界最大と謳われた伝説のコンピュータ見本市「COMDEX(コムデックス)」が幕を開けようとしていた。ITの地殻変動を肌で感じるこれとない好機。私は日本からナルボのメンバー2名を現地へ呼び寄せ、共にラスベガスへ乗り込むことを決めた。
彼らのアテンドを含め、現地で丸1週間ほど自らの開発作業を止めることになる。そのため、私は渡米前までに自分の担当タスクを猛烈な勢いで前倒しし、スケジュールをこれでもかと詰め込んでいった。
移動手段を巡る計画の段階では、大いに盛り上がった。「せっかくだから、カリフォルニアからラスベガスまで車でドライブしようじゃないか」。しかし、ルートを精査してすぐに色を失った。サンノゼからラスベガスまでは約900km。日本で言えば「東京〜大阪間」を往復するほどの超長距離であり、しかもその大半は見渡す限りの過酷な砂漠地帯である。現地スタッフの忠告もあり、私たちは早々にその無謀なロードムービー計画を撤回し、大人しく空路を選ぶことにした。
しかし、水面下での代償は大きかった。
慣れないCOMDEXの参加手続きや航空券の手配に神経をすり減らし、その上で限界まで仕事を詰め込んだツケが、出発のタイミングで一気に噴出したのだ。
ラスベガスに到着した瞬間から、私は猛烈な体調不良に見舞われ、華やかなエンターテインメントの街でほとんどの時間をホテルのベッドで寝込んで過ごす羽目になってしまった。最先端のテクノロジーが躍動したセッションの記憶もなければ、きらびやかなカジノの喧騒を楽しむ余裕もない。ただただ、ホテルの天井を見つめながら熱と戦った記憶だけが残る、手痛い出張となってしまった。
それでも、遙々日本からやってきた2人のメンバーにとっては、世界最高峰の熱気に触れたこの経験は極めて大きな財産となったはずだ。彼らが大いに刺激を受け、アメリカのスケールを楽しんでくれたのなら、私のこの手痛い熱病も「トップとしての本望」として良しとするべきだろう。そう自分に言い聞かせ、私はラスベガスを後にした。
(11)家族が見たカリフォルニアの風

激しかった仕事もようやく大詰めを迎えた頃、私は日本から妻と3人の娘たちを呼び寄せ、10日ほどのカリフォルニアライフを体験してもらうことにした。
家族の到着先は、確かサンフランシスコ空港だったと思う。ゲートの向こう、到着ロビーに懐かしい家族の姿が見えた次の瞬間、当時4歳だった三女が満面の笑みで私に向かって飛びついてきた。愛おしい我が子を抱きしめたとき、異国での緊張がすっと解けていくのを感じた。
滞在中の拠点に選んだのは、ハイウェイ沿いにあるモーテルの一室だった。アメリカでは人数ではなく部屋単位で課金されるシステムのため、大家族の滞在には非常に合理的で安上がりだった。朝食はセルフサービスで、シリアルやミルクを適当に摂るスタイル。毎朝、家族みんなで「ごちそうさまでした」と願いを込めて、チップボックスに1ドル紙幣をそっと入れたのを今でもよく覚えている。
さっそく近くの巨大なショッピングモールへも出かけた。今でこそ日本国内にも大型モールは珍しくないが、当時の私たちにとっては見たこともない未知のスケール。その圧倒的な広さと品揃えに、家族全員のテンションは上がりっぱなしだった。
また、滞在先から近かった名門・スタンフォード大学へも家族で足を運んだ。地平線まで続きそうなほど広大な敷地、構内を軽快に自転車で移動する学生たち。そして何より、豊かで美しい緑に囲まれ、ストレスなく学問や研究に没頭できる至高の環境を肌で感じた。この時の体験がよほど強烈なインパクトを残したのだろう。のちに長女は、日本の大学を一切受験することなく、そのままカリフォルニア大学へと進学する道を選んだのだった。
ちなみに、言うまでもなくスタンフォード大学はシリコンバレーの技術的・精神的な源泉である。ヒューレット・パッカードやGoogleの創業者をはじめ、ゼロックス、アップル、マイクロソフトの関係者も枚挙にいとまがない。特にGoogleは、この大学の研究室の一環から産声を上げたことで知られている。
また、ビル・ゲイツやスティーブ・ジョブズがこの大学の卒業式で行ったスピーチは伝説的だ。ジョブズが大学を中退後も「カリグラフィー(書体デザイン)の授業」にもぐり込んで聴講していたエピソードや、あのあまりにも有名な一節「ハングリーであれ。愚か者であれ(Stay hungry, Stay foolish.)」を若者たちに贈った舞台も、まさにこの場所である。
その後も、家族を連れてサンフランシスコの名所を巡った。定番のドライブコースから、活気あふれるフィッシャーマンズワーフ、そして雄大なゴールデンゲートブリッジ。フィッシャーマンズワーフの名物であるクラムチャウダーも味わったが、私の舌には、週末にサンタクルーズで食べたあの味がどうしても一番美味しく感じられた。ふと海原を見渡すと、肌寒い11月だというのに平然と水泳を楽しんでいる現地人の姿があり、「やっぱりアメリカは自由だなあ」と家族で苦笑した。
さらに、南の美しい港町モントレーへもハンドルを握った。海岸線を走る1号線(パシフィック・コースト・ハイウェイ)を突き進むと、車内に吹き込んでくるカリフォルニアの風がたまらなく心地よかった。モントレーは美しい街並みと新鮮なシーフードで知られる高名な街だが、いわゆる俗化された観光地とは一線を画し、静かで落ち着いた空気が流れている。家族もこの街の風と海、そして上品な佇まいがすっかり気に入ったようだった。
そんな楽しい思い出の一方で、今思い出しても冷や汗が出るエピソードもある。ある日の夜、どこに出かけた帰りだったかは忘れてしまったが、帰路の途中で完全に道に迷ってしまったのだ。
当時はカーナビなど存在しない時代である。暗闇のローカルな街道には街灯が一本もなく、周囲を走る他車のライトも見当たらない。完全な漆黒の中、ヘッドライトの明かりだけを頼りに、かすかな道路標識や地図の手がかりを必死に探しながら、なんとかアパートへと生還した。今思えば、幼い子供たちを乗せてなかなか無茶なドライブをしていたものだが、それも含めて、今では我が家のかけがえのない冒険譚となっている。
(12)美しい夜景を眼下に、日本へ

激動に満ちたカリフォルニアでの3ヶ月も終わりを告げ、いよいよ日本への帰国の時を迎えた。
実を言うと、慌ただしすぎたせいか、帰国当日の手続きに関する記憶の大部分は時の彼方に薄れてしまっている。ただ、出発したのはサンノゼではなく、サンフランシスコ空港だったはずだ。
そこでもひとつ、アメリカ流の強烈な大雑把さに直面したことを覚えている。初日にサンノゼ空港で借りて以来、私の相棒だったレンタカーの返却手続きでのことだ。現地のスタッフに確認すると、「サンフランシスコ空港の駐車場にそのまま置いておいてくれれば、それでいいから」と平然と言い放たれたのだ。言われた通りに車を残してターミナルへと向かったものの、「本当にあれで良かったのだろうか?鍵は一体どうしたんだっけな……」と、今思い出しても可笑しくなるような大らかな幕切れだった。
やがて、日本行きの巨大な機体が滑走路を蹴り、静かに離陸した。
高度を上げながら、機体が旋回のためにゆっくりと翼を傾けたその瞬間、窓の外の眼下に、息をのむほどに見事なサンフランシスコ湾の夜景が広がった。
光の海のように眩しく煌めくストリートの灯りを見つめながら、駆け抜けた激務の日々と、それを遥かに凌駕する技術者としての確かな達成感が、温かい熱量となって胸に込み上げてきた。あの鮮烈で美しい光の残像は、今でも私の脳裏に深く焼き付いて離れない。
振り返れば、今回の滞在記は技術的なディテールよりも、カリフォルニアという土地がくれた刺激や思い出の色彩に大きく押し切られたものとなった。だが、それでいいのだと思う。
まだ世界がインターネットの黎明期にあり、シリコンバレーという熱源が世界を塗り替えようとしていた1995年の秋。私たちが確かにあの場所に立ち、肌で風を感じ、戦っていた。そしてその原体験が、のちのナルボのオフィス環境やものづくりの思想へと手渡されていったのだ。
激動の時代に私たちが刻んだ確かな足跡として、この大切なプロローグの記憶をここに誇り高く記録しておこう。