【1986年12月~1987年4月】【サイドビュー】
(01)ワードプロセッサーの時代
パーソナルコンピュータ(PC)の歴史を紐解くと、その黎明期は現代のような多目的マシンではなく、特定の用途に特化した「専用機」としての側面が強くありました。
1. GUIとマウスの誕生
- Alto(1973年):ゼロックスのパロアルト研究所(PARC)で開発された「Alto」が、現代のPCの原型と言われています。
- Xerox Star(1981年):Altoの後継機として登場しました。
- Macintosh(1984年):Apple社からリリースされ、GUI(グラフィカルユーザーインターフェース)とポインティングデバイスであるマウスを一般に広める決定打となりました。
- 専用機としての性格:これらの先進的なマシンも、当時は現在のPCのような汎用機というよりは、基本的にワードプロセッサー(ワープロ)専用機としての色合いが濃いものでした。
2. 日本におけるワープロ専用機の普及
日本では日本語入力という独自の課題を解決するため、メーカー各社からワープロ専用機が次々と登場しました。
| メーカー |
機種名 |
登場年 |
| 東芝 |
JW-10 |
1978年 |
| 沖電気 |
EDITOR-200 |
1979年 |
| シャープ |
書院 WD-3000 |
1979年 |
| 富士通 |
OASYS 100 |
1980年 |
| NEC |
NWP-10N / 文豪 5N |
1982年 / 1984年 |
3. パーソナルワープロの黄金時代
- 市場の拡大:高価なビジネス機から、低価格な「パーソナルワープロ」へと市場は広がり、オフィスだけでなく一般家庭にも浸透していきました。
- 出荷台数:パーソナルワープロは、1989年のピーク時には年間出荷台数が300万台近くに達するほどの巨大市場を形成しました。
この「文書を作るための道具」が完成の域に達していた時代に、ナルボは設立され、次なるデジタル変革である「表計算」の領域へと挑んでいくことになります。
(02)ナルボ設立
1986年の設立当初、株式会社ナルボを取り巻く環境は、PCがまだビジネスの主役とは言い難い時代でした。当時のエピソードを整理します。
1. ナルボの誕生と当時のPC観
- 設立:1986年2月、Apple社のMacintosh登場から2年後に、小型コンピュータのソフトウェア開発会社として産声を上げました。
- 市場の評価:低価格なワープロが年賀状作成に使われ始めた程度であり、一般業務では汎用機が全盛でした。PCやパーソナルワープロは、まだ「おもちゃ程度」と見なされていた時代です。
- 初期の経営:設立当初は知人の会社から紹介された業務系システムの一部の請負開発などで日々を凌いでいました。
2. 転機となった「文豪mini7」の仕事
- 運命的な依頼:某-N社から、パーソナルワープロ「文豪mini7」のグラフシステム開発という仕事が舞い込みました。
- 背景:当時は小型コンピュータの請負会社が少なかったこともありましたが、ナルボにとっては後の経営と技術の基盤となる、まるでシナリオがあるかのような重要な転換点となりました。
3. 歴史を彩る企業と人々
- R社との関わり:この仕事は、当時カード型データベースなどのパッケージ製品でリードしていた某-R社を経由したものでした。
- 人物との縁:この時お世話になった某-中島部長とは、その後も長くお付き合いが続くことになります。
- 時代の変遷:R社は後に吸収合併され、ワープロメーカーも1999年に再編されるなど、当時の社名は現在残っていません。こうした技術や人材の系譜が直接的に継承されにくい現状に、エピソードの記述者は惜別の念を抱いています。
1987年4月にかけてのこの時期は、まさに「おもちゃ」と揶揄された小型機が、実用的な「表計算」や「グラフ」という武器を手に入れ、ビジネスの表舞台へ駆け上がる前夜だったと言えるでしょう。
(03)ワープロ‐アプリケーションの開発
パーソナルワープロの進化のスピードは速く、夏季と年末の賞与時期に合わせた新製品発売のサイクルに合わせ、グラフシステムの開発とバージョンアップが繰り返されました。この時期の技術的挑戦と、開発現場の熱量が記録されています。
1. 技術的背景とC言語への挑戦
- ハードウェアとOS:当時のパーソナルワープロのCPUは、Intel 8086/8088互換のNEC製「V30(μPD70108)」などが採用されていました。OSはMS-DOS互換の、開発者の名を冠した独自OS(通称:U-DOS)が使われていました。
- 開発言語の転換:当時の開発はアセンブリ言語が主流でしたが、ナルボはC言語による開発を提案し、成功させました。普及していた「Lattice C」から始まり、後に「Turbo C」へと移行していきます。
- 出力環境:パーソナルワープロはインクリボン方式のプリンタを内蔵しており、開発したアプリケーションの成果物は常にこのプリンタで出力される運命にありました。
2. 知識の欠落と「魔法のマニュアル」
- 独学の苦闘:当時はインターネットもなく、適切な書籍も乏しい中、ハードウェアに関する知識不足を補うのは至難の業でした。
- 謎のマニュアル:唯一の頼りは、どこからか入手した厚さ5cmほどの不思議なA5版マニュアル(非売品)でした。
- 必死の打ち合わせ:打ち合わせで飛び交う専門用語が分からなくても、仕事を失う恐怖からその場では質問できず、メモを持ち帰っては例のマニュアルを必死に漁る日々が続きました。
3. 開発現場の風景
- 優秀な女性技術者たち:N社では、アセンブリ言語を駆使してバリバリと開発を進める優秀な女性プログラマが活躍しており、その姿は非常に「かっこいい」ものでした。担当のI主任も女性であり、旦那様と一緒に新宿のナルボまで技術資料を届けに来てくれたこともありました。
- ROM焼きのプレッシャー:ワープロ専用機のアプリはROMに書き込まれるため、一度リリースすれば修正や消去が一切不可能です。何万台も出荷される製品としての責任感から、完璧なソフトウェアを目指して時間と神経のすべてがこのプロジェクトに注がれました。
(04)グラフシステムの開発
文豪mini7用のグラフシステム開発は、現代では想像もつかないほど、制約と工夫の連続でした。
1. GUI不在のUI開発とライブラリ自作
- ポインティングデバイスなし:当時のワープロは、まだマウスなどのポインティングデバイスを搭載しておらず、GUI(グラフィカルユーザーインターフェース)ではありませんでした。
- アプリケーション開発環境:用意されていた環境は、OSとVRAM(ビデオRAM)への「線」と「文字」の描画機能のみでした。テキストボックス、ボタン、メニューといったUI(ユーザーインターフェース)部品は一切なく、すべてを自作する必要があったのです。
- VRAMへの直接描画:小さなテキストエディタを作るにも、1本1本VRAMに線を引いて枠を描き、キーボード入力を処理して文字を描画、編集するという気の遠くなるような作業でした。
- GUIへの憧れ:ボタンやメニューによる操作を実現し、GUIのようなビジュアルを目指しました。この時の苦労が、後に「PC Pops Library」というMS-DOS上のGUIライブラリ製品化へと繋がっていきます。
2. モノクロ画面でのグラフ表現
- グラフの種類:折れ線グラフ、棒グラフ、円グラフなど基本的なグラフに対応しました。
- 10種類のテクスチャ:画面はモノクロでカラー表示ができなかったため、項目の区別は、線とテクスチャパターン(網掛けなど)で行いました。10種類ほどのパターンを用意し、棒グラフや円グラフを塗りつぶしました。
3. 塗りつぶしロジックと「塗りつぶし競争」
- ロジックの自作:図形ライブラリは存在しないため、テクスチャの塗りつぶしロジックも自ら考案する必要がありました。
- 円グラフの再帰的塗りつぶし:円グラフでは、まずパイ(扇形)の枠線を描画し、その枠内をストッパーとして再帰的に塗りつぶしていく手法を採用しました。
- 目で見える塗りつぶし:当時のPC性能では、この再帰処理によって少しずつ画面が塗りつぶされていく様子が目で確認できたのも面白い点です。
- 早稲田学生との競争:なぜか、この時期に早稲田大学の学生と「塗りつぶしロジック」の速さを競った記憶があります。それぞれのロジックで塗りつぶし方が違っていたのは覚えていますが、勝負の結果は記憶にありません(おそらく、負けたから忘れたのでしょう)。
(05)表計算システムの受注
グラフシステムの開発成功という実績が呼び水となり、ついに「表計算システム」という大きなプロジェクトが動き出します。ナルボの運命を決定づけた、情熱的な受注のエピソードです。
1. 舞い込んだビッグプロジェクト
- 経緯:グラフシステムでの成果が評価され、次なるステップとして表計算システムの開発案件が浮上しました。
- ナルボへの白羽の矢:本来はパッケージ製品で先行していたR社が開発する可能性もありましたが、最終的にナルボがその大役を担うことになりました。
2. 溝の口の疾走と「熱意」の正体
- 見積もり当日のハプニング:秋の溝の口での打ち合わせ当日、当時の社長である藤原氏と待ち合わせるも、予定より時間が遅れてしまいます。
- 汗だくの登場:二人は会場まで必死に走り、なんとか間に合ったものの、汗びっしょりで息を切らしながら会議室へ駆け込みました。
- 即決の理由:会場にはI主任と部長が同席しており、その場で正式に受注が決まりました。後日、I主任に選定の理由を尋ねると、「部長が熱意を感じたから」という答えが返ってきました。
- 真相:実際には、走った直後で顔が赤く、息が荒かった様子が「開発に対する並々ならぬ熱意」として部長の目に映ったようです。
この「汗と息切れ」から始まったプロジェクトが、後のナルボの経営と技術を支える強固な基盤となっていくのでした。
(06)表計算システムの開発
表計算システムの受注という歓喜も束の間、ナルボはかつてない巨大プロジェクトの荒波に飲み込まれていきました。それは、グラフシステム開発を遥かに凌ぐ、過酷な日々の始まりでした。
1. 絶望的なリソースとスケジュール
- 短すぎる期間:開発に与えられた期間は、わずか半年未満。ゼロから表計算システムを構築するには、あまりに無謀なスケジュールでした。
- たった2人のチーム:開発メンバーは、プロジェクトを率いる自身と、入社1年目の新人女性プログラマ・高橋さんのわずか2名。経験とリソースの圧倒的な不足は明らかでした。
2. 押し寄せる膨大な設計要素
表計算システムを構成するすべての要素を、この極小チームで期間内に作り上げなければなりませんでした。
- データモデルと表示制御:無数のセルが並ぶスプレッドシートの構造を定義し、それをVRAMへ直接描画して画面に表示する。
- 計算式の解析・実行:「=A1+B1」のような数式をプログラムが理解できる形式に解析し、正しく計算・再計算を行うロジックを構築する。
- シリアライズとI/O:作成したデータをファイルとして保存し、読み込む仕組み。
- プリンタ出力:ワープロ内蔵プリンタへの正確なレイアウトでの出力。
- GUIの自作:グラフシステムで追求した、ボタンやメニューによる直感的な操作インターフェース(GUI)を、さらに高度な形で実装する。
3. 厳しいハードウェア制約と「もがく」日々
- RAMの壁:当時のワープロはRAM(メモリ)容量が非常に少なく、膨大なセルデータを扱う表計算システムにとっては致命的な制約でした。メモリ管理の一つ一つが、極限の戦いとなりました。
- 若さとポジティブな思い込み:グラフシステム開発も気の抜けないプロジェクトでしたが、今回はそれを遥かに上回るプレッシャーでした。それでも、自分たちなら「できる」と何度も言い聞かせ、若さとポジティブな思い込みだけを頼りに、奈落の底で必死にもがき続ける日々が続いたのです。
絶望的な制約の中で、2人のエンジニアは奇跡の完成を目指し、眠れぬ夜を重ねていきます。
(07)S氏のプロジェクト参加
基本設計という孤独で過酷な作業の最中、運命的な再会がプロジェクトの潮目を変えることになります。
1. 天才プログラマとの再会
- S氏の登場:覚悟を決めて基本設計に取り組んでいた時、かつての同僚であり「エピソード 01」にも登場した天才プログラマ、S氏が遊びにやってきました。
- 運命の依頼:彼とは最初の就職先で電話交換機のコンパイラを共同開発した仲でした。切羽詰まった状況の中、思わず口をついた「これ、手伝ってくれない?」という言葉に、彼は「いいよ」と即答しました。
2. 「魔法」と「こだわり」の開発スタイル
- 担当領域:S氏に託したのは、表計算システムの心臓部である「計算式の解析・実行制御ライブラリ」でした。
- 圧倒的な品質と速度:彼は納得するまで動かない一方で、一度納得すれば完璧な品質のコードを魔法のような速さで仕上げました。
- 極限の最適化:当時のC言語が生成するコードに満足できず、性能向上のために部分的にアセンブリ言語で調整するなど、徹底的に性能にこだわりました。
- 執拗なテスト:実機テストでは、フロッピーディスクが回転している最中に本体を叩くなど、極端な状況下での例外発生を確認する徹底ぶりでした。
3. S氏の驚くべき逸話
- ハッカーとしての顔:彼の趣味はアプリのプロテクト解除で、難攻不落のソフトほど楽しそうに解析し、大抵のものは1日で解いてしまいました。
- 驚愕のオファー:当時、ボーランドジャパンの社長就任を打診されたことがありましたが、彼はそれをあっさりと断っています。
- 時代を先取りした技術:
- 通常のDOS用マウス(反転表示)とは異なり、Windowsのように画面上に浮いて表示されるマウスドライバを自作していました。
- 20代にしてすでに自作のリレーショナルデータベースを所有していました。
もし彼にスティーブ・ジョブズのような営業パートナーがいたら、日本から世界に負けないデータベースメーカーが生まれていたかもしれない――そう思わせるほどの才能が、20代のナルボに集結していたのです。
(08)「オブジェクト指向」との出会い
開発が始まったばかりの緊迫した状況下で、表計算システムの運命を左右する決定的な設計思想との出会いがありました。
1. 雑誌のコラムがもたらした啓示
- 基本設計の焦燥:表計算システムの根幹となるデータモデルの設計を急いでいた時期、購読していた専門誌「インターフェース(CQ出版社)」の中に、わずか1ページの「オブジェクト指向」に関するコラムを見つけました。
- 直感的な確信:その内容を目にした瞬間、「これだ!」と直感が走りました。表計算システムという複雑なデータの集合体を定義する上で、オブジェクト指向のモデリング手法が完璧にフィットしたのです。
2. 混沌から秩序へ
- 設計の整理:それまで頭の中にあった断片的なアイデアが、オブジェクト指向という枠組みを得たことで、パズルのピースが埋まるように次々と整理されていきました。
- C言語による実装:当時はまだC++のようなオブジェクト指向言語が普及していなかったため、開発言語であるC言語をベースに、オブジェクト指向の基本原理(カプセル化やポリモーフィズムの概念など)を独自に取り入れるスタイルで開発を推進しました。
3. 幸運なタイミング
- 技術的転換点:もしこのタイミングでオブジェクト指向に出会っていなければ、限定的なメモリ(RAM)条件下での複雑なスプレッドシート設計はさらに困難を極めていたかもしれません。この出会いもまた、プロジェクトを成功に導くための「ラッキー」な出来事の一つでした。
このオブジェクト指向に基づいたデータモデルの採用が、後のナルボの技術的アイデンティティ形成における重要な一歩となったのです。
(09)「ロータス1-2-3」の日本上陸とガラパゴス的こだわり
オブジェクト指向という新たな武器を手に開発を進めるナルボの前に、当時の表計算ソフトの常識を覆す黒船が現れました。
1. 黒船「ロータス1-2-3」の衝撃
- 日本上陸:1986年9月5日、世界的なベストセラー表計算ソフト「ロータス1-2-3」の日本語版が満を持してリリースされました。
- 幕張での出会い:ナルボの面々は、幕張メッセで開催されていた展示会へいち早く駆けつけ、その実物を目の当たりにします。
2. 直感的なUIへの感銘
- 既存ソフトへの違和感:それまで、ナルボは「Multiplan」をはじめとする様々な表計算ソフトを研究してきましたが、操作性において「どうもしっくりこない」感覚を抱いていました。
- 圧倒的な使いやすさ:しかし、ロータス1-2-3のユーザーインターフェースは、それまでのソフトとは一線を画す、極めて直感的で洗練されたものでした(現在では当たり前となっている操作感の源流です)。
- 絶好のタイミング:自社システムのUI設計を固めるこの重要な時期に、理想的なベンチマークに出会えたことは、ナルボにとってこの上ない幸運(ラッキー)でした。
3. セル番地記述へのガラパゴス的こだわり
- 常識への疑問:一般的に、表計算ソフトのセル番地は「A1」のように「列(アルファベット)-行(数字)」で記述します。
- 概念優先の決断:しかし、日本語の「行列」という言葉からも分かる通り、概念的には「行」がプライマリであるべきだと、開発者は考えました。
- 「行-列」記述の採用:そこで、ナルボの表計算システムでは、数式としての美しさよりも概念的な一貫性を優先し、「1A」のように「行(数字)-列(アルファベット)」で記述する独自の方式を採用することにこだわりました。
- ガラパゴス的特徴:おそらく世界的に見ても他に類を見ないこの記述法は、ナルボの表計算システムを象徴する、独自かつ「ガラパゴス的」な特徴となったのです。
ロータス1-2-3という「正解」を見ながらも、自らの信念に基づいた「こだわり」を貫いたこの決断。これが吉と出るか蛇と出るか、開発はさらに熱を帯びていきます。
(10)「表計算ソフト」(スプレッドシート)の系譜
パーソナルコンピュータ(PC)の歴史を振り返ると、その普及の裏には常に、ハードウェアを牽引する強力な「キラーアプリ」としての表計算ソフトの存在がありました。
1. 「VisiCalc」とApple IIの躍進
- きっかけ:1978年、ハーバード大学で金融モデルの講義を受けていたDan Bricklin氏が、黒板の表と数式、パラメータを用いた計算を自動化するアイデアを思いつきました。
- 世界初の誕生:同年、Apple II上でプロトタイプが動作し、世界初の表計算ソフト「VisiCalc」が誕生しました。
- 市場への影響:1977年にリリースされたApple IIが飛躍するターニングポイントとなったのは、この画期的なVisiCalcを使いたいという需要があったからだと言われています。
2. ビジネスを変えた「Lotus 1-2-3」
- IBM PCの牽引役:IBM PC/ATおよびその互換機の普及を決定づけたのは、「Lotus 1-2-3」でした。
- 事務作業の変革:このソフトの登場により、ビジネスにおける事務作業は、それまでとは別次元のスピードと正確さを手に入れました。
- PCの普及:表計算ソフトというカテゴリーが確立されたことで、PCは単なるワープロの延長線上を超え、一気に世界中へと行き渡ることになりました。
3. 歴史の勝者
- Excelの台頭:かつてはVisiCalcやLotus 1-2-3が市場を支配していましたが、最終的にこの分野の勝者となったのは「Microsoft Excel」でした。
- 進化の皮肉:Microsoftはかつて「Multiplan」という表計算ソフトを展開していましたが、その歴史を知る者にとっては、現在のExcelの圧倒的な地位は感慨深いものがあります。
もし表計算ソフトが発明されていなければ、現在のコンピュータは今なお「ワードプロセッサー」という限定的なカテゴリに留まっていたかもしれません。ナルボが取り組んでいたこのプロジェクトは、まさにコンピュータ史の王道をゆく挑戦だったのです。
(11)「PC Pops Library」MS-DOS上のGUIライブラリ
「グラフシステムの開発」で培ったノウハウが、ナルボにとって記念すべき最初の自社製品へと結実します。
1. ナルボ初の自社製品誕生
- 製品化の経緯:グラフシステム開発のために自作したGUI(グラフィカルユーザーインターフェース)をベースに、開発者向けのGUIライブラリとして製品化を決定しました。
- 製品名:このライブラリは「PC Pops Library」と名付けられ、株式会社ナルボの第1号製品となりました。
- 機能:これを利用することで、当時の主流であったMS-DOS上でもGUIベースのアプリケーションを効率的に開発することが可能になりました。
2. 市場の反応と当時の環境
- 動作環境:当時はPCのメモリが一般的に少なかったため、このライブラリを動かすにはある程度リッチなハードウェア環境が必要とされました。
- 販売実績:正確な価格の記録はありませんが、最終的に約800本を売り上げました。
請負開発の中で生まれた技術を汎用化し、自社ブランドのパッケージソフトとして世に送り出したこの経験は、ソフトウェアメーカーとしてのナルボの歩みを象徴する出来事となりました。