それは、1本の国際電話から始まった。
(01)サンノゼから

これから何度か登場する天才プログラマS氏からの電話だった。しばらく音信不通だったので「突然、なんだろう」といった感じで電話に出た。「今、サンノゼにいるのだけど仕事手伝ってくれない?」、はて、と思いつつ出た言葉は「分かった。行く」だった。
S氏とは同じ年で最初の就職先が同じで、一緒に電話交換機のPL/Iライクなコンパイラを開発した経緯がある。ナルボの初期(1987年)には、その後のナルボの経営、技術の基盤となるプロジェクト(表計算システム)にも参加してもらっていた。(この辺りの話は、「エピソード 02‐表計算システム」で)
何はともあれ、現在の仕事を整理し、成田空港からサンノゼ国際空港へ向かった。
(02)サンノゼへ

行先はカリフォルニアにある某‐S社で、クパチーノというとても簡素できれいな町にある会社だ。S社は当時、マイクロソフト社、ボーランド社と同じようにソフトウェアの開発環境をグローバルに提供していた。ちなみに、S社は、アップル社、ボーランド社と仲がよかったのか本社はお互い近くにある。特にS社とアップル社は道を隔てただけの距離にあった。(ちなみに、マイクロソフト社は同じカリフォルニアだが、サンノゼから北のサンフランシスコの更に北にあるシアトルが拠点だ)
古い資料を見返したら、航空券はアメリカン航空AA128便、1995/9/26(火)成田発(17:45)、サンノゼ着(11:10)とあった。(ちなみに、アメリカン航空は2026年に創業100周年、ナルボは40周年を迎えた。)
帰国は、はっきりしないが、12月中頃だったような気がする。3ヶ月ほどの滞在で、その滞在先は、Oakwood Apartments / 830 So. Saratoga Ave. / San Jose, California 95129 だった。最初の部屋はシャワーか、排水不良で、別の部屋に移った記憶がある。広い敷地に100棟くらいはあるアパートの一室だった。
到着した日から、なかなかハードでアメリカンな1日だった。時差ボケもあり、今日はゆっくりできると思っていたら、アパートに到着後、荷物を置いて、その足でサンノゼ国際空港に戻り、レンタカーを借りることに。この間に気になったのは、フリーウェイの合流までが短いことだ。最初の印象としては、たまたまぶつかっていないのでは、という感じで突入しているようにしか見えない。国際免許は持って行ったが、左ハンドルも右側通行も初めてだったので「大丈夫か?」という不安でいっぱいだった。しかし、状況的にこの車でアパートまで帰らなければならない。当然、フリーウェイの入り口が迫ってきた。後続もあるので減速もできない。突っ込んでみた。(生きてた)
いきなり初日から意識はアメリカンにスイッチされた。(強制的に)
(03)開発環境

開発環境だが、なんと、開発者ひとりひとりに部屋が与えられていた。確か10畳くらいだったと思う。机は片方が長めのU字型で、各部屋にはホワイトボードがあり、壁の上部には棚があった。(メジャーリーグ級の環境か)どの部屋もドアはオープンのままで、お互い気軽にコミュニケーションできる雰囲気だ。部屋の使い方は自由なので、自転車を持ち込んだり、ライトを点けずに暗くしていたり、ひとの背より高いキャンディタワーをいくつも置いていたり、それぞれ個性的だ。また、共有スペースには、たいていの飲み物が用意されていた。(軽食もあったかな)確かコカ・コーラのサーバーもあった(アメリカらしい)さすがにアルコールはなかった。
この開発環境は、その後のナルボの開発環境の参考にもなった。ナルボでは、十分な性能のPC、最大最良のディスプレイ、160mm×120mmのL字デスク、最高の椅子、フリードリンクなど、ここでの経験がベースとなっている。
一方、開発の進め方はチームで対応するというより、各タスクをそれぞれ分担し、任される感じだ。自分のパーツの遅れやトラブルはそのまま結果責任となるだけでなく、全体の開発にも影響することに加え、勝手が違うアメリカでの仕事ということもあり、気を緩められない日々となった。自由で十分な開発環境を与える替りに、それなりの成果が出なければ即クビ!という感じ。こんな状況で、2週間、時差ボケが続いた。
(04)日本語ローカライズ

仕事は、簡単に言えば、ある製品(32ビット、64ビット)の日本語ローカライズだった。なのだが、自分の開発マシン(PC/AT互換機)は自分で作成する必要があった。(これまで、PC-98ばかりだったので、PCを自作したことはなかった)
確か、いくつかのパーツメーカに行って適当に買ってきて組み立てたと記憶しているが、最初は安いところで購入するため、不良品が少なくない。特にハードディスクは何度か交換したが、だめで、結局、正規品を購入して作った覚えがある。話によると、返品したハードディスクはそのまま販売品の山に戻しているとか。(なるほど。それでもOK.な人がいるから?まさか)カルチャーショックの日々だった。
そして、いよいよソフトウェアの開発環境の構築となるのだが、この辺りもなかなか手こずった記憶がある。32ビット、64ビット環境、メイクファイル、環境変数、ソース、およびライブラリの捕捉、日本語コンパイラへの対応、などなど、異国での開発環境の構築はストレスフルだった。
さて、日本語化だが、主に①フォント関連、②エスケープシーケンスのシフトJIS対応、③32ビット版のUNICODE変換、④その他日本語化、などに加えU.S.版ベースの問題対応もあった。
一方、自身の作業には集中できたので、品質も確保でき、強く確かな達成感を得られた仕事でもあった。いろいろ苦労したが、一通りの作業が完了し納品した後、責任者のIさんが握手を求めてくれた。自身の達成感もあり、その後ひとりでガッツポーズをしたのを覚えている。
この流れで、珍しくひとりで高そうなお鮨屋に入っていた。後にも先にもこの一回だけ入ったお店だ。お鮨の内容は忘れたが、後から一人の黒人がリズミカルに鼻歌を口ずさみながら入ってきた。(何かが起きる予感がした)そして、醤油差しをつまんだのだが、醤油の挿し口が取っ手っぽいデザインだったので、挿し口をつまんで、醤油差しの蓋を開けて醤油を注いだのだ。止める間もなく(当然、びちゃびちゃに)ひとりでウケてた。
(05)カリフォルニアでの食事

現地での食事について、朝食と夕食はあまり記憶にないが、スーパーで買っておいたシリアル、牛乳、など適当に摂っていたと思う。オレンジジュースが美味しかったのは記憶している。(さすが、カリフォルニア)
一方、昼食は決まって近くの和食レストランに行った。100人以上は入りそうな大きなレストランで、お鮨、天ぷら、蕎麦など、が食べられたと思う。はっきり覚えていないが、店名は「浜鮨」というような名前だったか。いつもS氏を含めて3~4人で行った覚えがある。あるお昼のこと、4人のアメリカ人が近くのテーブルに着き、オーダーした後に一斉わり割り箸を取って割り、先端をカシャカシャやりだした。いつまでも。ちょっと滑稽だった(誰かが教えたんだろうなー)
もちろん、ハンバーガーなども好きだったので、本場アメリカのハンバーガーは期待していたが、アメリカのハンバーガーはとても大きく単調な味で、早々に飽きてしまった。そんなある日、誰かの差し入れでバケット系の大きなサンドイッチをみんなでいただいたことがある。バケットが大きすぎて上あごが削られながら食べ終わった。あごも疲れたが、同様に食べ終わったS氏とのアイコンタクトで、お互いに出血を悟った。(そう、ここはアメリカ)
(06)お世話になったIさん夫妻

食事といえば、毎週末、S氏と一緒にIさんのお宅に伺い、奥さんにご馳走してもらった。ご夫妻とも自分たちと同年代だが、Iさんは、その会社のアジア圏全般の責任者で、もちろん、その時のプロジェクトの責任者でもあった。ボーランド社の出身でいろいろ、奇抜で笑えるエピソードを聞くことができた。が、ここでの紹介は控えておく。
Iさんのお宅は、サンタクルーズにある。サンタクルーズは、サンノゼから南に50kmほどで、17号線の一本道で、車で1時間程にある海のある町だ。途中に山があり、頂上辺りにボーランドの本社があった。ちなみに17号線は海の近くで1号線と交わるのだが、途中の事故が多く、年間365件以上だったと記憶している。(毎日1件以上)確かにカーブが多く、ハンドルを微妙に調整しないと壁にぶつかるような気がした。サンタクルーズは、1885年にハワイの王子たちがサーフィンをしたことから、アメリカにおけるサーフィン発祥の地といわれている。海には本当にたくさんのアザラシとカモメがいて、いつも海風が吹いてる。桟橋の先には売店があり、そこで食べるクラムチャウダーはうまかった。(サンフランシスコも有名だが、こちらの方がうまかった)
話を戻すと、Iさんの奥さんの料理が、和洋中、どれも美味しかった。(もともと実家が信州のペンションを経営しているとか)また、会話も上手で、日々緊張が続く中、この食事と会話にとても癒され、救われた思いがある。
(07)カリフォルニアでの運転

先に、レンタカーを借りた初日のことをちょっと話したが、ここで、カリフォルニアでの運転についてもう少し触れておきたい。いうまでもなく、アメリカでは車は右側通行で多くは左ハンドルだ。高速道路は無料で、3,4,5車線と広いが、いつもそこそこ混んでいる。特に朝と夕方は通勤ラッシュとなる。交通システムとしておもしろいと思ったのは、交通量がある量になると、その高速道路への入り口が規制され、待たされる。高速道路内での渋滞を回避するためだ。また、鉄道の線路はあまりないのだが、日本のように一時停止はしない。停止してはいけない規則なのだ。停止したら後ろから突っ込まれる。これも遮断機ベースで考えると合理的だと思った。
気を付けなければいけないのは、一般道も4車線くらいのところも少なくないので、左折するときに本来向こう側のレーンに入らなければならないのだが、車線が多いため手前の車線に入ってしまったことが2回ほどある。(前から車の大群が来た)
また、当時はまだナビもないので、紙の地図が頼りとなる。カリフォルニアをベースに10枚以上のマップを持っていたと思う。あちらの地図は、冊子ではなく大きな地図を折りたたんでいるものがほとんどだった。慣れるとこちらの方が使いやすい。
(08)休日

休日は、よくサンフランシスコに出かけた。サンフランシスコは、サンノゼから北に80kmほどで、101号線か280号線を使うが、車で、1時間程で行ける。101号沿いには、聞き慣れたサニーベール、マウンテンビュー、パロアルト、ベルモント、サン・マテオなどの町があり、スタンフォード大学も101号線と280号線の間にある。
いつも同じ駐車場に止めて、ランチを食べて、近くを散策するだけだったが、1995年のアメリカは景気も良かったのかサンフランシスコの街も活気があり、休日のお昼にはテラスで生演奏を聴きながら食事をするなど穏やかな時間が流れていた。街の名前は意識しなかったが、あれはユニオンスクエア辺りだったのか。
また、モントレーにも何度か行った。モントレーは、サンノゼから南に120kmほどで、サンタクルーズからは70kmほどのところにある港町で、アメリカ人が住みたいあこがれの町だとか。ドライブルートとして有名な「17マイル・ドライブ」、おしゃれでかわいいお店と街並みなどもいい。また、ゴルフの聖地として名門コースも多く、ペブルビーチ ゴルフ リンクスでは、全米オープンも開催され、ここの8番のセカンドショットは、右側に太平洋を望みながらの崖越えなのだとか。あの帝王ジャック・ニクラスが「生涯であと一度しかプレイできないなら、ペブルビーチを選ぶだろう」とか、「人生最後のショットは8番のセカンドショットだ」とか。とにかく、おだやかな気候とその景観がすばらしい場所だ。
I夫妻に連れて行ってもらった場所のひとつにヨセミテ国立公園がある。氷河に削られた渓谷や花崗岩の岩壁などもある雄大な自然公園で、なんと東京都より大きい。1984年に世界自然遺産に登録されたとのことで、その象徴はハーフドームとその滝なのだが、時期が10月か11月だったこともあり、滝の水は少なかった。
そういえば、S氏とナパ・バレーに出かけたことがある。ナパ・バレーは、サンノゼから北に160kmほどで、サンフランシスコからは90kmほどのところにあり、ワイナリーで有名な場所だ。今では日本でもナパ・バレーのワインは人気だが、1995年当時はそれほどでもなかったと思う。たくさんあるワイナリーのひとつに入り、一面のブドウ畑を前にパスタとワインを楽しんだ。お互い無言で景色を眺めていた。(落ち着く)
(09)ロサンゼルスでの会議

ナルボは、某‐NTTD社ともお付き合いがあった。その当時NTTD社は、あるプロジェクトで米国のあるIT会社に仕事を依頼していた。そんな関係からある日、「こちらのプロジェクトの会議に参加してほしい」旨の連絡が入った。場所はロサンゼルスとのことだった。ロサンゼルスは初めてだったが、1泊2日で行くことになった。サンフランシスコ空港からロサンゼルス空港へ。ロサンゼルス空港に着くと、なんと、プラカードをもった運転手が待っていてくれた。(よく見る光景だが、自分の名前のプラカードはなんか嬉しい)なんと、リムジンで迎えに来てくれた。リムジンに乗るのは初めてで、8人は乗れるリムジンにひとりで乗るには気が引けたが、黒人の運転手と会話しながら1時間ほどで宿泊先のアパートに到着した。たしか、オレンジが付く名前の町だったと思う。(ビバリーヒルズではない)あっ、ロサンゼルスの空も青かった。
翌日、午前中から会議に出席した。どうも進捗が芳しくない印象だったので、依頼先のIT会社に少々強めな指摘をした覚えがある。そのためか、午後の打ち合わせの出席はなくなった。午前中の打ち合わせで印象に残っているのは、以前Windowsの挙動でナルボでも調査したことのある案件を依頼先のIT会社のメンバが即座に回答したことだ。たしか、最初は参加していなかったが、ここぞというときに参加してきて一太刀で終わらせる。(用心棒か)
さて帰路になるが、ロサンゼルス空港からサンフランシスコ空港に着いたのが15:00頃だったと思う。ここで、事件が起きた。車をサンフランシスコ空港のロングターム駐車場に置いてきたのだが、この駐車場は、4,000台ほどの駐車スペース(サッカー場10面分くらい)でとにかく広い。そして、いくつかのブロックに区分されていて、リムジンバスや、車が通る時だけ区分ゲートが開閉する。当然、駐車した場所を特定するため、駐車エリアは行列番号で採番されている。そう、駐車したときに駐車エリア番号を控えなかったのだ。
かれこれ、2時間ほど探したが、見つからない。辺りも薄暗くなってきた。最悪、空港で朝を待ってまた明日探すことにしようかと覚悟を決めつつあった。でも、もう一度だけ集中して駐車した時の風景を思い返してみた。山がこの角度にあったような。とすると、消去法であの辺りのエリアしかないか。と考え最後の探索を試みた。「あれ、もしかして」そばに駆け寄り、以前手当てしたバックミラーのガムテープを確認した時、思わず嬉しくて車を撫でていた。(さあ、帰ろう)
(10)ナルボのメンバの訪米

1995年の11月、当時世界最大のコンピュータ見本市のCOMDEXがラスベガス(ネバダ州)で開催された。せっかくの機会なので、ナルボから2名のメンバを日本から呼んで一緒に行くことにした。1週間ほど仕事を休むことになるので、その前に作業を前倒しで詰め込んだ。最初、車で行こうかな、なんて考えて会話も盛り上がったが、ラスベガスまでは900kmほど(東京‐大阪の往復分)で、その間ただの砂漠だ。(止め止め)
結局、飛行機で行くことにしたのだが、COMDEXの参加手続き、航空機の手配に神経を使いつつ、仕事を詰め込んだせいか、ラスベガスへの出発頃から体調を崩し、ラスベガスではほとんど寝込んでいた記憶がある。セッションの記憶もなく、カジノを楽しむこともなく帰ってきた。
まー、2名のメンバはいろいろ経験になり楽しめたと思うので良し、とするか。
(11)家族の訪米

仕事もだいぶ片付いた頃に、妻と娘3人の家族を呼んで10日ほどカリフォルニアの生活を経験してもらうことにした。たしか到着はサンフランシスコ空港だったと思う。到着ロービーに家族が見えた瞬間、4歳の三女が飛びついてきた。
宿泊先はモーテルの一室だった。あちらでは人数でなく部屋に課金されるので、とても安上がりだった。朝食はシリアルなどを適当に摂ることができる。毎朝、家族で1ドルだけチップボックスに入れたのを記憶している。(ごちそうさまでした)
近くのショッピングモールへも行った。今は日本でも大きなショッピングモールがあるが、当時は見たことがなかったので、そのスケールの大きさに家族でテンションが上がった。
スタンフォード大学も近かったので、家族で行ってみた。敷地が広く、学生が構内を自転車で移動していたのが印象的だった。緑も多く、ストレスなく勉強、研究に集中できる環境を肌で感じた。この時の印象が強かったのか、長女は日本の大学を受けることなく、カリフォルニア大学へ進んだ。
ちなみに、いうまでもなくスタンフォード大学はアメリカでも名門で、シリコンバレーの源泉となっている。ヒューレット・パッカード、Google、などの創業者も輩出しているが、ゼロックス、アップル、マイクロソフトなどの関係者も少なくない。特にGoogleはスタンフォード大学の研究の一環から始まったともいわれる。
また、ビルゲイツやスティーブジョブスは、スタンフォード大学の卒業式に登壇している。スティーブジョブスは、「カリグラフィー(書体・文字デザイン)の授業」にもぐりこんで聴講していたことや、卒業式で「ハングリーであれ。愚か者であれ(Stay hungry, Stay foolish.)」という言葉を残したのは有名だ。
サンフランシスコにも家族で出かけた。いつも行くコースと、フィッシャーマンズワーフ、ゴールデンゲートブリッジ、辺りは行ったと思う。先にも触れたが、フィッシャーマンズワーフでもクラムチャウダーを食べたが、サンタクルーズのクラムチャウダーの方が美味しく感じた。そういえば、11月なのに海で泳いでる人がいた。(自由だなあ)
先に紹介したモントレーにも家族で出かけた。車で海岸沿いの1号線を走るのだが、カリフォルニアの風が気持ちよかった。モントレーはきれいな街並みやシーフードで人気があるが、いわゆる観光地のイメージと違い観光客は少ない。家族はモントレーの風と海と街並みが気に入ったようだ。
話は代わるが、どこへ行ったときか覚えていないのだが、家族で夜の帰路、車で迷ったことがある。当然ナビもなく、ローカルな道で他に車もなく、街灯もないため真っ暗な中、走る道の手掛かりを探しながら何とか帰ったことがある。今思えば、なかなか無茶をしていた。
(12)帰国

いよいよ帰国となるのだが、帰国時の記憶がほとんどない。ただ、サンノゼ空港でなく、サンフランシスコ空港から帰国したと思う。サンノゼ空港で借りたレンタカーだが、サンフランシスコ空港の駐車場に置いたままでよいと言われたので、そのようにしたが、大丈夫だったのか?(カギはどうしたっけなー)
飛行機が飛び立ち、旋回のため少し傾いたとき眼下にサンフランシスコ湾の夜景が見えた。(きれいだった)仕事の達成感もあり、今でもその光景は記憶に残っている。
今回のエピソードは、仕事よりもカリフォルニアの話題に押されてしまった。まー、こんな仕事と時代があったということで、ひとつのエピソードとして記録しておこう。